「お替わりはいかが? 〜1365〜」

1999.03.30 (Tue) ==========================

□ コミュニケーション能力 〜2〜

 その一方で、CNN等のニュース番組や米国のテレビ番組などを見ていると、
ハイスクールはおろかそれより下の年代でも驚くほどはっきりと自分の頭で物
が言えるのは、これまたさきほどとは別の意味で驚異である。私なども、いい
年をしているが、どこまで自分の頭で物がいえるか甚だ疑問であるし、小学校
から高校、あるいは大学(これはちょっと位置づけやシステムが異なるから外
してもよかろう)までの間で、知識に関連して問題を解くということ以外で
「自分の頭で考えて自分でものを言う」トレーニングというものを受けた記憶
がほとんどない。さらに、自分以外の他人の考えと自分の考えを比較する、戦
わせるといったことになると、これはもう皆無と言って良い。

 知識を得るということと、自分で考えて行動しあるいは議論するという能力
(あるいは技術)を得るということと、どちらが優先して教育の場で取り入れ
られるべきであろうか。私が思うに、小学校から中学前半程度までの知識は、
高校卒業までには得ていてしかるべきだ。特に小学校で習う内容というのは、
生活にも密着した必須ともいえるものが多く、これをおざなりにしてはいけな
い。しかし、今の高校で習うような高度な内容が果たして高校進学の全員にほ
ぼ均等に必要かどうか疑問である。私は知識としては高校までの12年間で中学
前半までの7〜8年間分でもよいのではないかとおもう。あとは進路に応じて、
個人の考えや特性で専門性を伸ばして行けばよい。

 そもそも、知識というものは、本当に必要になったときには、比較的簡単に
得ることができるものだ。もちろん努力は必要だが、その必要性や意義が見い
だせない状況よりはずっと簡単に頭にはいる。だから極論すれば、基本が抑え
てあればあとは必要になってからでも遅くはない。

 しかし自分で考えて他人と議論しさらに自分の考えを磨き上げて、といった
能力はそうかんたんに身につくものではなかろう。しかし、自分で考えて自分
自身を確立し、議論を戦わせてさらに自分を磨き上げるというのは非常に重要
なことである。私も含めて今の勤労世代から学童世代までこれが全くといって
よいほどできていなから、例えば政治や行政に対しても自分の意見がなく、な
すがままに日々生きて行く。厳しい声がなければ、政治や行政はその従事者の
思うがままである。こういう意味で、今の日本の政治や行政の腐敗や堕落は他
ならぬ私たち自身が生み出し成長させたのであり、そういう私たちは量産型知
識偏重教育の産物でもあるわけだ。これは何もシステムだけを批判しているの
ではなく、今頃になってこうしたことに気づいていた自分が、実に馬鹿に思え
るのである。今までいったい何を考えて生きてきたのか、ということだ。

(続く)