「お替わりはいかが? 〜1364〜」 1999.03.29 (Mon) ========================== □ コミュニケーション能力 〜1〜 私はかねがね現在の日本人の英語による会話能力の低さと学校英語教育の実 用性の低さを主張しているが、実際の所問題の根はもっと深いように思う。そ れは何かというとコミュニケーション能力の低さである。大まかに言えばごく 限られた民族や文化から成り立っているこの国あるいは地域の中にいる限りは、 必要なコミュニケーション能力というのもかなりローレベルのものでもなんと かなるのが実状だろう。その大きな要因は、多くのことは明示的に言葉で議論 しなくても、暗黙に示したり、間接的なやりとりの中で片づく事が多いという 点にあるのではないだろうか。これは限られた地域や民族の中で暮らす限りは、 多くをいちいち議論せずともものごとがまわってゆくので、このうえなく便利 で効率が良いのであるが、その一方で全く異なった他の民族や世界との交流と なるとほとんどお手上げ状態になる危険が高い。 私自身を含めて、マスメディアの論調は何かにつけ日米の比較をすることが 多いような気がするが、こと教育においては日米ではなく日本対先進諸外国と いう比較でも成り立ちそうに思える。日本の教育は世間様や我が娘、そして自 らの経験を振り返って考えると、典型的な知識重視教育であることは間違いな いだろう。それもどちらかと言えば知識そのものを得た上でそれをどう役立て るかということはあまり重視されることはなく、とにかく知識を得ることその ものが重視され試験という形でそれを試し判断する。得た知識をどのように使 うかというのは置き去りにされているのだ。つまりそこで重視されているのは、 知識の獲得具合だけといっても過言ではない。知識といっても生きるために必 要な先祖から伝えられている生活の知恵といった類の物ではなく、いわゆる数 学とか物理とか化学とか歴史とかいった学問的な知識に偏っている。 こうして知識偏重・試験重視型になったことで、とりあえず人間を比較する のに、客観的な尺度で安直に即物的に計りやすくなり、上級学校への進学や企 業や公務員の採用の際に深く考えずに機械的にふるいにかけることができるよ うになった。もちろん知識は必要であり、それをどの程度身につけているかの 試験も必要なのは確かであるが、それが全てではない。採用とか進学の節目に おいてならばともかくも、日常の教育までが知識偏重になって良いのだろうか。 よく耳にする米国と日本の比較というのは、どちらも両極端にすぎることを 言い表しているのではないか。つまり日本は知識重視であり、米国は考え方重 視というやつだ。聞くところでは米国の教育(特にハイスクールまで)の知識 に関する分野のレベルの低さである。日本で言う文系大学生の中には、(− 1)×(−1)が計算できないものもいるらしいが、これなどはよほど極端な 例で非常に希だろうと思うと存外そうでもないらしいから驚く。 (続く)