「あいちゃんの散歩道」

第14回 中学1年生の英語の教科書


 昔も今も普通の公立学校で始めて英語を習うのは中学1年生になってからである。私も例に漏れず始めて英語に接したのは、今から約30年前の中学1年生の時であった。当時は英語の教科書としては「ニューホライズン」、「ニュークラウン」、「ニュープリンス」の三大教科書があって、私が通った中学では「ニューホライズン」を使っていた。

 当時の1年生の「ニューホライズン」がどんな内容で始まっていたかは記憶に無いのだが、おそらくは「This is a pen」とか「I am a boy」とかいった類であったろう。そして一冊の教科書の中は、ほとんどが地の文であって、教科書1冊を通して関連のある内容になっているわけではなくて、どちらかといえば国語の教科書をそのまま英語にしたような感じだった。

 それから約三十年がたち、私の子供がこの春中学に進学し先日教科書一式を貰って帰ってきた。仕事から帰ったらテーブルの上に教科書一式が積み上げてあったので、パラパラとめくってみた。主要5教科の中では、国語はそんなに大きな変化はなく、数学は基本的には同じようなものだが、多少簡単になったりしているのかもしれない。理科も1分野と2分野にわかれているのは同じで極端な差は無い。社会については1年生は地理を学ぶが、これも内容が時代の変化に応じて変えられてはいるが極端な変化は感じなかった。

 だが、英語は劇的とも言えるくらい大きな変化がある。私が中学生だった約30年前は先に書いたように、国語の教科書の英語版、つまり長からず短からずの文章とその文章にふさわしい挿絵やイラストがあるだけの、明らかに読解目的の教科書であった。これは、今二十代半ばの人に尋ねてみたが、やはり私が使ったのと同じスタイルの教科書だったというから、今から10年とちょっと前も、あいかわらずの読解中心の教科書だったようだ。

 それが、現在の教科書はどうなっているかというと、子供の使う「ニュークラウン」をみると、私達の世代が連想する英語の教科書ではなくて、どちらかといえば初級英会話のテキストである。登場人物が設定されていて、それは日本人中学生を中心とする家族とおそらくは米国人の同年代の子供達がいる。そして教科書のレッスンは互いに挨拶を交わす所から始まっている。だから必然的にレッスンとしては会話文が多くなる。会話文だけではよろしくないということだろうか、時々ショートストーリーも入っていたりする。例えば「不思議の国のアリス」の出だしの部分がある。イラストにはハンプティ・ダンプティが描かれていたりして、この雰囲気は欧米の小さな子供達にはおなじみのものだ。これの原作は読んだことが無いが、アリスがハンプティ・ダンプティのベルトのことを話すと、ハンプティ・ダンプティはこれはベルトではない、ネクタイだ、というオチで終わっていたりして思わず笑ってしまうところだ。(注:ハンプティ・ダンプティは卵に手足と目鼻口をつけたような外見なのである)

 もっと驚いたのはリスニングセクションがあることだ。あるリスニングセクションではスクリプトを聞いて、それが駅のアナウンスなのか、デパートなのか、空港なのかといった聞き分けをする。また別のスクリプトは空港のアナウンスらしく、それを聞いてアナウンスにあったフライトナンバーを知る、搭乗ゲートを知るというものだ。

 もちろん実際の空港のアナウンスはそんなに簡単ではないし、エコーがかかっていて周囲の雑音もあり非常に聞き取りにくく、最初は何をいっているのかさっぱりわからない。だが、アナウンスなんてそんな突飛なことをいうわけではないく、まして搭乗案内であれば、フライト名(多くの場合数字は二桁ごとに区切って読まれる)、ゲート、そして時に搭乗順序の席番号(搭乗時の機内の混雑を避けるために、座席の列でどこからどこまでといった風に有る程度分けで搭乗させることがおおい)などだ。慣れるとなんということはないのだが、結構曲者である。

 外国人の友達との交友というストーリー設定だから、当然面と向かった会話だけではなく手紙もある。手紙があれば当然電話もある。電話というのも聞き取りにくいものだ。電話回線を通して聞く相手の声はこもって聞き取りにくいし、身振り手ぶりが通じない、相手の表情がわからないから、普通に面と向かって話すのと違って格段にむつかしい。普段から話す機会の多い相手なら別だが、始めての人との電話の会話はかなりきついものである。まあ、中学1年生の英語だから、そんなに難しい話しはなくて、電話で話すときの常識、つまり日本語で言えば「○○さんはいらっしゃいますか?」「私です」といった簡単なところを習うだけだが、それでも私の頃にはこういう基本的かつ常識的なところすらなかった。単的に言えば、私のころは中学一年をおえても電話口に相手を呼び出してもらう言い方はおそらく習わなかったが、今は教科書にそれが乗っているということだ。

 ちょっと脱線。挨拶といえば「How are you?」に対して馬鹿の一つ覚えのように「I'm fine thank you, and you?」とかばかりだった。だが実際にアメリカ人に「How are you?」と尋ねてみて「I'm fine thak you」なんてこたえる人はむしろ稀ではないか。実に色々なバリエーションの答えがある。そもそも「How are you?」と何故尋ねるのかを考えて見るべきだ。多くの場合、本当に相手の状況が知りたくて「How are you?」と尋ねているわけではなく、単なる挨拶であり、話しのきっかけを作っているに過ぎない。レストランでのウェイターが発する挨拶としてなら単純に「fine」でもよかろう(「I'm fine thank you, and you?」なんて言うとかなり変な顔をされるのではないか)が、話しのきっかけを作ろうとしている相手に、「I'm fine」と言いきってしまっては、身も蓋もなく先が続かなくなってしまう。「まあ、まあだね」という意味では「So, so」もあるが、これまた会話をそこでぶったぎってしまう表現だから、会話を続けるつもりなら、他の表現を使うか、あるいはすぐに続けて何ら化の会話を続けるタネを撒くべきだろう。これは日本語でも同じで「調子どう?」と尋ねられて「まあね」では、そこで会話が終わってしまう。日本人に「How are you?」と聞くと100人中ほどんどが「I'm fine thank you, and you?」と答えるというから笑える。これは私も今だから笑えるのであり、何年か前まではその同類だったのは確かだ。とにかくしつこいくらいこういう応答を習ったから反射的にこれが出てしまうのもあるし、他の応答方法を知らないというのもあるだろう。

 閑話休題。ともあれ、中学の英語の教科書は英語読解本から英会話テキストにかわりつつある。おそらくはかなり保守的な世界のなかで、教科書をここまで変えるのにはかなりの苦労があったと思う。しかし、その苦労を微塵にうち砕くものがある。それは参考書の類であり、多くの塾の類だ。参考書をみるとわかるが、せっかく教科書が実用会話に近いことを少しずつ身につけさせようとしているのに、参考書のほうは旧態依然たるものが多く、いきなり難解な文法解説になったりしているものが実に多い。参考書からしてそうだから、受験準備塾ではどうなのか容易に想像がつく。

 頭ができあがりつつある中学生(あるいは大人)が改めて違う言語を身につけるには、文法という理論的な裏付け・補助知識が必要になってくる。赤ん坊のようにこれからその言語に適したニューラルネット(脳神経細胞の結合網)が出来あがってゆくならともかく、すでに日本語に最適化されたニューラルネットができあがっている(できあがりつつある)時期には、単に音を真似るとかそうしたことだけでは絶対にだめである。よく英会話教材で赤ん坊はこうして言葉を覚えてゆくのだから、このシステムはそのステップを取りいれて自然に英語が身につく、なんてうたっているものがあるが、個人的にはあれは大嘘だと思う。頭が出来あがってしまった大人が全く違う系統の言語を身につけるには、それなりの工夫とかなりの努力が必要である。外国語放送をのんべんだらりと聞いていても、英語が身につくものではない。最初は音の洪水だがいつのまにかそれが意味をなしてくるなんてのは、他の努力を併用しない限り絶対に有りえない。AFNをのんべんだらりと聞いていてもそれはいつまでたっても単に音の洪水でしかないのである。

 言語学的な意味付けは専門家にゆだねるとして、文法というのは理解を助けるために必要なのであり、理論的に表現をパターン化することで覚えやすくするという意味もあるのではないか。もちろん第一義は、長時間をかけて経験的に身につけなくても、理論的に体型だって理解することで、より正確な言葉で話したり書いたり、ときには読みこなしたりするためのものであろう。

 文法なんか英会話を身につけるに当たってはほとんど必要無いという意見もあるようだが、私はそうはおもわない。相手がたやすく理解してくれる正しい英語で話すためには文法は非常に重要なものである。ただ、この場合の文法とは受験参考書に現れてくるような高度なものではなく、中学の教科書レベルのごく基本的なものである。また会話を習得するための手段の一つとして文法を理解するにあたって、「動詞」、「名詞」、「関係代名詞」、「句動詞」とかいった風な、国文法的な日本語文法用語は全く無意味である。言語の生い立ちが日本語とは全く異なる英語に対して、日本語の文法用語やそれに派生するような日本語での用語を当てはめることは、文法の比較研究をするならともかく、単に会話ができるようにする、コミュニケートできるようにすることが主たる目的なら、まったく無意味であるといって良い。無意味どころか、英語を解釈するのに頭で、一度日本語の文法に変換したりする悪癖が身についてしまうだけで、後々苦労するだけだ。英語は日本語とは全く別の言葉なのだから、英語のルールで英語で考えるべきである。文法とは動詞とか名詞とか言った用語を覚えたりすることではなく、文章を組み立てるためのルールを覚えることなのである。そのルールは日本語で考えるべきではない。文中の "that" が同格のそれか、関係代名詞のそれか、などということを日本語で考えても会話能力が向上するわけではなく、話そうとするときにそれらが真っ先に頭に浮かんでくるという弊害を呼び起こすだけだ。

 何が言いたいかというと、教科書はこれだけ良くなっているのだから、次に問われるのは英語教師の能力そのもだということだ。つまり英語教師からして会話に有る程度は達者でないともはや勤まらなくなるのである。文法は十分知っているが、日常的な会話はからきし駄目で、発音ときたら「です いず あ ぺん」となるともう絶望的だ。言語そのものを研究するのは大学の専門過程に任せて、中学卒業までの英語学習では基本的な日常会話が出来るようにすべきであり、実際、教科書はそれにむけて確実に変化している。

 変化を求められるのは教師ばかりではない。進学の為の「受験英語」しか頭に無い親どもの意識改革であろう。そうした意識が弱まらない限り、それをくいものにする進学塾や自習教材はウハウハと喜ぶだけだ。受験英語を完全に否定するものではない(きっちり読めて書けることは英文での論文を書くことなどに役立つはずだが、今の受験生がどこまできっちり英作文ができるかは疑問が残る)が、高度な読解力は日常会話ができるようになってから次の段階の話しではないか。

 もうすぐ小学校でも英語教育が始まるというが、とにかく日常会話を正しい文法で正しい言い回し正しい発音で難なくこなせる人を英語教師にしていただきたい。逆に言えばそれができない英語教師は直ちに英語の授業から外していただきたいものだ。客観的にそうした能力を図る手段は完璧ではないかもしれないが方法はいくらでもある。SITE、TOEFL、TOEIC、英検などだ。これらを複数併用(一つの試験だと試験対策で偏る可能性が高い)して、さらに異文化への理解度や経験(留学・居住・交流経験)なども合わせて判断すべきであろう。

 もっとも、これらを厳密に果たすと今の中学英語教師の九分九厘は間違いなく失職するであろう。しかし、門戸を広げて社会人一般・外国人にも英語教師の道を広げれば、その九分九厘を埋めることは楽ではないにせよ可能であろう。これは極論だが、これくらいの気持ちをもって英語教師達には取りかかって欲しいし、親の意識も変えてゆくべきだ。

 まだまだ、先は遠いが、新中学一年生の英語教科書に、英語教育改革の光が見え始めている。


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