私の子供が今年の春から中学生になった。小学校と中学校の勉学上の最大の違いは、内容の細分化と高度化である。小学生までは日常生活に最低限必要な知識のさらに最低限のことを教えるのが目的であり、どちらかといえば広く浅くであった。だから、教えるほうも原則としては一人の教師が全教科を担当できたし、教師自身も主眼は教えることだけではなく、育てるほうにも重きを置いていた。だから、教えかつ育てる方法を学ぶために、基本的に教育大学や教育学部あるいは教育系の学科を出ていないといけなかった。
しかし、中学(高校も同じだが)になると、教科ごとの専門性がたかまり、とても一人の教師でカバーできる内容ではなくなってくる。教師の側ももはや育てるよりは教えるほうに重点が置かれるので、単に教育系の大学・学部・学科を出ていればOKなのではなく、各専門科目をみっちり学ばなければならないのである。
実際のところ、私も大学一年のころには、教員免状を取ろうと思い(この時点で教員を志すかどうかは未定であったが、四年生になって教員になりたいと思っても履修すべき科目を履修していないとだめなので、可能性がある場合は一年の時から履修科目を考えなくてはいけない)、一年生の段階で教職過程に必要な「日本国憲法」の授業を取り履修した。私の在籍した学科では数学もしくは理科の中学・高校の一級免状が取得可能であったからだ。数学・理科ともに私の好きな科目であったのだが、数学は大学になってから急激に難度があがり、私自身が数学的センスが十分ではないことがわかり、理科の免状をとろうと思って必要な履修科目を調べて驚いた。理科系の科目には実験が必須であるが、私の学科では2年間にわたり物理実験と化学実験が必須科目だったのだが、理科の教職過程を追加すると、別途生物実験と地学実験が2年間にわたり必須になるのだ。中学や高校の実験と違って、大学における実験科目では実験そのものよりも実験レポートが重要になるのだが、そのレポートをかくのが時間がかかりやっかいなのである。そのやっかいな科目が倍になる上に、地学実験では何度かのフィールドワークがある。
第一志望で教職を望んでいたわけでもないく、どちらかといえばおまけ的に考えてきた教職過程に、これだけ時間を食われては、本来の専門過程が怪しくなってくるし、当時マイクロプロセッサ(Intel8080)に大いなる興味を抱き、これをつかって自分でハードとソフトを設計してコンピュータを作ろうと思っていたこともあって、どうにもプラスアルファで考えていた教職過程にまでまわす余分な時間は作れそうも無かった。結局、私の教職過程は一年生での「日本国憲法」を履修しただけで終わった。
閑話休題。中学で学ぶ学科の中で、小学校と比べてとりわけ専門色が濃くなるのが、数学と理科ではないだろうか。もちろん他の教科も専門色は濃くなるが、新たなことを学ぶというよりは、特に国語と社会についてはこれまで学んだことの理解を深めるという色が濃い。ちなみに、中学ではじめて学ぶことになっている英語(実際にはわが子も含めて小学生から英語をやっている子は非常に多い)は専門以前に、もはや今の時代は国語と同じく生活必須科目であると私は考えている。英語を専門過程として考えるのは、大学の英語系専門科においてであり、それ以外の中学・高校・大学で学ぶものは専門過程としての英語ではなく、昔はともかくこれからの時代は生活必須能力としての英語、第二の公用語ともいうべき地位としての英語であろう。
さて、小学校から中学校になり、算数は数学になり、理科は1分野と2分野に分かれる。理科は小学校で浅く習ったことを、より深く掘り下げるのだが、数学は明らかにことなる。小学校の算数は文字通り「数えること、計算すること」が主眼であり、小学校の算数が出来ないと日常生活に差し支えるか、不便な思いをすることになる。その意味では小学校の算数はサバイバルのための教科であろう。それが中学の数学になると、そうした実用的な意味は薄れてくる。実際問題、三角関数を知らなくても日常生活には何ら差し支えはないわけである。極論だが中学以降の数学で学ぶ内容というのは、その内容だけをとれば別段知らなくても普段の生活には影響はほとんどない。ただ、中学以降の勉学の中で関係あるとすれば、数学で学んだ内容は理科、とりわけ物理分野で影響してくるし、その先では数学と物理は非常に密接な関係を持ってくる。
こうした他教科との関係を抜きにすれば、数学で学ぶべき本質は「考えること」である。解答にたどり着くまでの思考のプロセスについて学ぶことがもっとも重要であり、最終的に得られた計算解が正解だったかどうかはその次に重要なことである。数学の場合、正解にたどり着くまでの道筋は、多くの場合一通りではなく、幾通りもの道筋が存在している。中学からの数学を学ぶのは、こうした道筋を考える力を養うためである。数学の世界を離れて世の中に出ると、多くの問題にぶちあたる。その問題の何割かは、解決するためには数学で養った論理的思考能力が多いに役に立つことだって多いのである。ここでは三角関数そのものは役に立たないことのほうがはるかに多いが、三角関数や種々の定理や公理といった与えられた道具や条件を元に、論理的思考により解決への道を見つけるという力は数学を学び、問題を数多く解き、色々な解を見ることでゆっくり身についてゆくものだ。
しかし、高校や大学への進学の学力判定基準となる尺度のひとつとして数学があり、多くの試験では採点の客観性や便宜上から、最終的な正解の有無だけで判断せざるを得ないのも事実だ。高校や大学でより高度な数学を学ぶために必要な力が身に付いているかどうかを見るという点で、数学の試験は必要悪とも言えるが、それが中学における日々の学習の中で、解答(正答)至上主義に傾くのは考えものだ。進学校ではない一般の公立中学ではそのような傾向は小さいと信じるが、どうも親の側が正答至上主義に陥りがちではないかと思う。
正答至上主義が悪いというわけではなく、数学的センスを生まれ持った(数学的センスの有無というのは、音楽的なセンスが持って生まれたところに依存する部分が大きいのと同様な意味で絶対に存在する)子供なら、おのずから考えるプロセスを楽しむようなところがあるので、ある程度方向性を示して練習を重ねれば、あとはほぼ自動的に正答にたどり着くことが多い。もちろん難易度が上がれば正答率は下がるにせよ、その傾向に変わりは無いだろう。とにかく数学的というか論理的に考えるプロセスを楽しむのである。しかし、我が子のように数学的論理思考センスが先天的に低いとしか思えないような子もいるわけで、このような場合はちょっとくらい練習したとて、そう簡単に論理的な思考プロセスのコツをつかむことは難しい。会得するにはかなり努力が必要になり、数学的センスの無さがそのつかみをより難しいものとしている。また、一旦つかんだように見えても実は上辺だけですぐに滑り落ちてしまうことだって多い。結果的に正答率は低くなり、それはすなわちテストの点数の低さに直結し、母親はその点数を見て激怒するのである。
このように生まれ持った(生まれるときの脳の状況で音楽分野の伸びに先天的な問題があったり、あるいは数学分野が同様に問題があったりしてそれは一種の脳の欠陥でもあるので治らない場合もあるらしい)得手不得手があるから、なおのこと正答率でみると得手不得手の子の差は激しく開いてしまう。得意な子は数学の面白さ、論理的思考の面白さを知っているから放置していても勝手に学んでゆくが、不得手な子はそうではない。
数学が不得手な子に教えなければならないのは、受験用に正答率をあげることではなく、論理的に秩序だって考えることであり、論理的に考えることの面白さを知ることだ。もちろん正答を出すのは最終的には重要な問題で、中学の数学程度のレベルでは研究価値は無いに等しいから、例え受験しなくとも最終的には正答でなくては意味は薄れる。だが、正答かどうかを判断する前に重要なのは、考えるプロセスでありそこにいたるまでの論理的思考の展開である。その最たるものは証明問題であろう。私に言わせれば証明問題ほど楽しい数学の問題はない。単純な計算ドリルはほとんど「作業」であるが、証明問題は、それまでに得た定理や公理、前提条件や論理的思考方法を駆使して、ある数学の論理を証明するわけである。普通に考えたら証明不可能に見える問題でも、数学的帰納法を使えば簡単に出来たりする。もちろん数学的帰納法を習うときには数学的帰納法が論理的に正しい論法であることも証明するわけだ。少なくとも中学・高校の数学にはひらめきというのは必要であっても(そのひらめきの有無が数学的センスの有無の結果のひとつであろう)、想像や第六感は必要ではない。
子供がテストや練習問題で誤った答えをかくと、教師としては×をつけざるをえない。その結果がテストの点数として現れ、親、とりわけ母親から雷が落ちることが多い。我が妻は小学校の教諭であったから、ことさら教えることに関しては訓練をつんでいるはずだが、我が子のこととなると、教師であるまえに親になってしまうようだ。これは妻に限らない話で、妻の元同僚たちも同じらしく、自分の子供の勉強は自分でみることができないという。だから、教師の子供といえども進学塾や補修塾に行くことが多い。ともあれ、数学の点数の良し悪しで晴れたり雷雨になったり(親が雷を落とし、子供は涙の雨を降らせるから雷雨である)するのは、やむをえないと思う。しかし、問題は雷雨のあとのフォローであろう。
間違った問題はもとより、正答だった問題についても、その思考プロセスはどうだったのかを考える必要がある。思考プロセスに誤りがあったが、偶然他の誤りが重なり結果的に正答にたどりついて○をもらっている場合だってないとは言えない。特に母親が陥りがちなのは、×をもらったところを見て「どうして、こんなことがわからないの!教えたばかりのところでしょう!」とかいうのはよろしくない。妻も往々にしてこのような叱り方をするから注意するのだが、子供がこと数学に関してはなかなか頭が回らないのと同様、妻の叱り方もなかなか治らないようだ。ここで重要なのは、なぜ間違った答えにたどり着いたかを子供の頭で考えて、間違った思考プロセスを認識し、そのプロレスの論理的な誤りをきちんと理解することではないだろうか。数学とは最初から最後まで論理づくしの学問であり、そこには憶測の入る余地はない。論理にむすびつけるためのひらめきは必要であるが、ひらめきは憶測とはまったくことなったものだ。数学を教える側は、スタートレックのミスタースポックのように論理的に対処しなくてはならない。
どうも、こういうことをいうと、妻などもそうだが「私は文系だったから...」と逃げようとするのだが、私に言わせればそれはおおきな間違いである。文系であろうが理系であろうが、論理的思考は必要である。一口に文系といっても経済などは論理的思考を必要とする側面が強いし、芸術系では理系に比べると論理的思考の重要度は低いのは間違い無かろう。世の中他人との関係において成り立っている。社会とは人の集合体である。人があつまる以上、そこに議論が発生する。議論になったとき必要なのは論理的思考である。議論に感情を持ちこんだら、それは単なる口喧嘩になり下がってしまうであろう。
数学は、数学というひとつの学問を切り口にして論理的思考ができる訓練の場なのである。そこには推測などは入る余地はないから、初歩的な論理的思考の訓練の場としては絶好のものであると考える。数学は単に入試のために点数をとる教科ではない。論理的思考を訓練し、そして、論理的思考のプロセスを楽しむ教科である。中学、高校の数学というのは、数学としては極めて易しい内容であるから、そうした思考のプロセスを楽しむにはもってこいの難易度であることは間違い無い。世の中の中学生・高校生諸君の一人でも多くの生徒が論理的に考えることの楽しさを数学を通して知ってくれればうれしいのだが、現実の入試一本槍の教育を目の当たりにすると絶望的ですらあり残念なことだ。
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