西武鉄道池袋線。池袋を始発として途中のベッドタウンを串刺しにしながら、埼玉県の飯能までを結ぶ典型的な通勤路線である。飯能から先は単線運転の西武鉄道秩父線となり、山の中を縫うように西武秩父へとつながる。池袋から西武秩父までは新型車両の特急ニューレッドアローで所要時間約一時間半の旅である。
池袋から急行で20分程度のひばりが丘までは、線路ぎりぎりまで住宅が迫っているが、ひばりが丘を過ぎるとぼつりぼつりと畑が顔を出すようになる。所沢を過ぎ入間市あたりまでは、団地が立ち並ぶベッドタウンである。入間市あたりだと都心への通勤は早くても一時間半はかかる。今や池袋線終点の飯能も都心への通勤圏となり、マイホームと引き替えに二時間の満員電車での通勤に耐えているサラリーマンの姿が脳裏に浮かぶ。一日の六分の一を満員電車の中で過ごすのはさぞかし辛かろう。
電車は飯能で進行方向が逆になる。特急レッドアローは飯能を出発すると芦ケ久保まで止まらない。この区間はカーブも多く単線運転のため特急といえどもスピードを出せない。山間部の為特急電車の車内設置されている公衆電話も使えなくなる。飯能から西武秩父まではおよそ35分の旅で、途中東吾野と吾野で上り列車とすれ違う。単線ならではの風景だ。
このあたりになるとさらに山並が間近に迫ってくる。ところどころに高圧送電線が走り、都会の電力を俺が支えているのだと言わんばかりに堂々と、しかしどこかか細くその存在を主張する。眼下に見える道路は渓谷にそって下を流れる川と共に曲がりくねって走る。初めてのトンネルを抜けると芦ケ久保に着く。ここには観光農園が多くあり、春から秋まで観光客が絶え間なく訪れる。ガイドブックなどにはあしがくぼ果樹公園村として紹介されている。車を使わずに自然を味わえる数少ない場所である。せっかくこのように便利な場所にあるのだから木々の緑と果実の香りを排気ガスで汚したくはないものだ。
芦ケ久保で停車した窓の外に時刻表が見える。池袋のびっしり数字で埋まった時刻表とことなり、昼間などは一時間に一本となる。池袋からほんの約一時間半でこんなにも差が出てくることに、人間の居住圏・日常活動範囲の狭さを思い知らされる。
芦ケ久保をでると10分足らずで西武秩父に着く。西武秩父の駅を出ると左手に仲見世がある。規模は小さいが土産物屋や飲食店が並び、京都の新京極をほうふつとさせる。ここに武蔵屋という蕎麦屋がある。出てくる蕎麦は無骨で切り方も不揃いであるが蕎麦の味は悪くない。もう少し出しが強くてもよいが、観光地の飲食店にしては上出来である。価格もせいろが500円と観光地にしては比較的リーズナブルな設定である。
西武秩父から車で20分ほど走り小鹿野町の国道沿いに太田甘池堂という羊羹の老舗がある。田舎や柚など三種類があり羊羹以外は昔ながらの駄菓子や煎餅、干菓子ぐらいしかない。特に柚は餡の甘味と柚の香りが口中に広がり美味である。羊羹が好きな甘党にはお勧めの店である。
さらに10分ほど走ると、埼玉県森林公社の運営する「みどりの村」がある。ここは年末年始を除き年中無休でひろば、キャンプ場、宿泊施設、プールなどがある。宿泊施設は埼玉県越谷市の市民保養施設となっているが空きがあれば、市民でなくても利用でき一泊二食で6500円と安価である。プールも都心に近い遊園地のプールと異なり、ゆったりとしている。この「みどりの村」にはとりたてて名物があるわけでもないが、都会の喧噪からしばし逃れて自然のなかでゆったりするにはもってこいである。
ただ惜しいのはこういう自然に囲まれたリゾート施設は足の便もわるく、車が不可欠であることだ。都心近くに住むサラリーマンが車を車を持つのは、駐車場代を初めとして尋常ではない出費を強いられるためかなり難しい。そして、そういう場所に住む人間にこそ、自然の中でのリフレッシュが必要なのだが、足の便を考えると子供連れにはなかなかうまく思い通りにはならない。自然の中で暮らすための足としての車は認めるにやぶさかでないが、レジャー目的で自然を求めるために車が集中するというのはいただけない。
夏の秩父の山の天候は不安定である。晴れている日の午後4時頃急に雷鳴が轟き、滝のような雨が降り出すことがある。夜8時頃になっても降らないので今日は大丈夫かと思っていると、やはり結局は降ってくる。特に夕立は激しく一歩外に出れば次の瞬間頭から足の先までずぶ濡れになるような降り方だったりする。場所にもよるのだろうが、みどりの村の付近は降った後も気温がさほど下がらないので、むっとした湿度の高い空気が立ちこめる。
夕立のあった日の朝は湿気が翌日にまで残り朝も蒸し暑い。とはいってもさすがに7時前ならば前日の熱気もなくなり、朝のさわやかさがあたりをつつみ、林の香り、小鳥のさえずりが心地よい。だがそれも7時半を過ぎると蝉が鳴き始め、日差しが強くなりあっという間に朝の日差しは夏の昼間の強い日差しにとって変わる。
都内では殆ど聞くことのできない、鴬のさえずり、蝉の声は都会育ちの子供にはとても新鮮に映るらしい。私の娘も東京の都区内で生まれ育ったため、虫取り網を満足に使えない。何より昆虫の持ち方を知らないのである。体長20mm位のコクワガタがいたのだが、それをむんずと鷲掴みにした。コクワガタのオスのツノの部分のサイズがちょうど子供の人差し指のサイズにぴったりであり、むんずと捕まれたコクワガタはこれ幸いとばかり、子供の指を挟み込んだ。小さいとはいえクワガタには違いないから、挟む力はそれなりに強く、ツノの先端が指先に食い込み子供は悲鳴をあげた。キリギリスでも同様で、これも顎が発達しており、小さな口で挟まれると結構痛い。やはりムンズと掴んで、食われて悲鳴をあげていた。都会育ちだと虫を掴むということがすくないため、胴を脇から静かに持つということを知らないのだ。
知らないのは虫の掴み方だけではない。花火もしかりである。都内の込み入った住宅地に猫の額ほどの公園では、せいぜい線香花火位しかできない。煙が多いとすぐ苦情になるし、打ち上げ花火などは火災の原因にもなるのでもってのほかである。河原も無ければ広場もない、あるのは兎小屋と皮肉られる広さしかない住宅ばかりである。
こんな風だから、子供は何を見ても触っても大騒ぎで、興味津々、目がらんらんと輝き、疲れ知らずに変身する。いつもならくたびれたという筈なのに、いったいどこから体力が涌き出すのだろうか。豊かな自然にふれると潜在体力が引き出されるのかも知れない。かえってつきあう大人の方が音をあげて、もう帰ろうと言い出したりする。子供は汗まみれになったも平気である。普段運動しない大人もすぐあせが吹き出てくる。だが都会でアスファルトや車のボディの照り返しで流れる汗とは違って心地よいのだ。子供達も本能的にそれに感じているのかも知れない。汗を風呂で流した後のビールはまた格別に美味である。人間で良かったといえる数少ない一瞬かもしれない。
普通なら風呂上がりで眠くなる子供達も、風呂で疲れが取れたのか今度は屋内で騒ぎだし、また汗をかく。こうして動き回った後の食欲はものすごい。普段の何倍もカロリーを使うので体が要求するのであろうか。普段は口にしない物も喜んで食べることもあり、見ている方が、そのくらいでごちそうさまをしなさい、と言いたくなるような食べっぷりを示す。もっとも普段もこんなに食べるとたちまちにして、肥満児になるに違いない。
子供達の寝静まった後のみどりの村の夜は静かである。虫の鳴き声だけが鳴り響く。夜空に輝く星も都内から比べるとずっと多いが、天の川にはほど遠い。戦慄を覚えるような星の輝きは、都内から1時間半の場所では望むべくもないのだ。やはりここでも七夕は伝説でしかない。
秩父の土産物屋には、地元特産のこんにゃくやこんにゃく惣菜が数多く並ぶ。なかでも「こんにゃくごぼう」というこんにゃくとごぼうの煮物が袋詰めされたものが500円で販売されているのが、極めて美味である。昨年鬼怒川温泉に行った時に同じ様なものが売っていたので、喜んで買い求めたがこちらは旨くなかった。JA小鹿野町の直販所では大きな袋に入ったこんにゃく(一袋に市販のこんにゃくと同程度の大きさの物が、3つか4つ入っている)が三袋で1000円などというのもある。煮ると旨そうだがさすがに小家族にこんにゃく10個は食べきれない。小鹿野の土産物屋では乾燥柚粉末のびんづめやそれに類する製品を多く見かける。これを吸物にいれると非常に香りがよくなる。特に秩父特産品というわけでもなかろうが、都内のスーパーではなかなか見かけない。料理店では本物の柚をつかうが、家庭では消費量もすくないので、かえってこのような物のほうが使いやすい。
小鹿野町の南西に両神村という村がある。住所で言うと埼玉県秩父群両神村である。ここに地元では有名なワインの醸造元がある。小規模な工場なのであえて名前は明らかにしないが、そこで作られたワインは埼玉県内のデパートなどでも入手可能である。この両神村は寒暖の差が激しく、アルカリ性の土壌という、葡萄造りの条件に恵まれている。明治22年に奥秩父の農家に生まれた浅見源作は1940年、両神村に葡萄園を誕生させた。以来今日にいたるまで薬品は一切使わず、その葡萄園でとれた葡萄だけを原料にして、ワインが作られている。純国産の手作りワインであるが、価格は720mlで1000円から1500円とリーズナブルな価格であり、これで採算が取れるのだろうかと、客の方が心配になってくる。両神村の工場には直販所があり、ここでは決して他では買えない種類のワインを運がよければ購入できる。詳しいことは書けないが、チャンスがあれば行ってみると良い。両神村のワイン醸造元といえば地元で有名なのはここしかない。
両神村をさらに南に下ると、国道140号線に合流する。ここは秩父鉄道の三峰口のそばである。ここから140号を14Kmほど西へ向かうと人造湖である秩父湖がある。途中140号は荒川の渓谷沿いに曲がりくねり、車に乗っている者を左右にゆすぶる。秩父湖の手前に駒ケ岳トンネルがある。このトンネルは、薄暗くトンネル内でいきなり標識が現れれ、直進すると入川橋方面、左折すると三峰神社方面である。このトンネル内の分岐が何の予告もなく現れるので、恐ろしい。分岐方向に折れるとすぐにトンネルをぬけ、秩父湖をつくっている二瀬ダムの上を道路は走って行く。ここから10Km弱の山道を抜けるとやっと三峰神社にたどりつく。途中の風景はまさに水墨画の世界である。神々がやどる世界といった荘厳な、人を寄せつけない気品がただよう。
駐車場に車を止め、参道を上ると途中に参詣者目当ての土産物屋兼食堂がある。ここでも蕎麦のメニューが多い。大ざるを注文すると、ちぢれた蕎麦が出てくる。価格は大ざるが750円と少し高めというところか。蕎麦そのものは普通であるが、汁が旨くない。蕎麦に汁が負けている。蕎麦の香りを生かす為に薄くしてあるというわけではなく、単に薄いだけである。ここでも柚と一味の粉末香辛料にお目にかかることができる。
三峰神社の境内には驚くべき事に郵便局がある。さらにひっそりではあるが土産物屋もあり、観光地と化している。そういえば、駐車場から参道に上る手前に妙な看板があった。「帰りはパパは車で、ボクとママはロープウェイで」とうたっている。神社からゆっくり歩いて10分ほどでロープウェイの乗り場に着く。その道は山の中だけあって涼しく、風も心地よい。都会人が長らく忘れていた心地よさである。ロープウェイは三峰山頂駅から大輪駅まで8分1900mの旅であるが、料金は800円とかなり高い。大輪に到着しても交通機関はバスだけであり、箱根のケーブルカーやロープウェイのように場所的に連絡が良いわけではないから便利が悪くて高い。不合理である。
大輪のロープウェイの駅から140号への道はかなり急な下りである。山頂へ行く場合にはこの坂を逆に上らねばならないが、駅に着く頃には息が切れてくる。140号に下りれば、秩父鉄道の三峰口までは6kmほど、秩父市街地までは18kmほどである。ここからは人の臭いのする街に続く道路となり、秩父路の旅も終わりに近いことを告げてくれる。
池袋から特急で一時間半、そこから車で30〜40分程度で自然にめいっぱいふれることができる。天の川こそ見えないが、東京のそばにもまだまだ自然は多い。
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