箱根紀行'95 (No.35〜37 1995/08/08-08/10掲載)


第一日目

 新宿と箱根・小田原・江ノ島方面を結ぶ小田急は二つの顔を持つ。沿線に多くの住宅地と学校を抱え、昼夜を問わず多くの通勤通学客を乗降客数日本一である新宿へと運ぶ。現在複々線化工事が進められているが、朝のラッシュは深刻で列車数も限界に達している。

 もう一つは観光地と都心を結ぶ旅の列車としての顔である。江ノ島、小田原、箱根湯本、強羅などの観光地や温泉地を抱え、特急ロマンスカーを使えば東京から一時間半程度で手軽に行くことができる。「ロマンスカー」、不思議と懐かしい響きをもつ呼び名である。前面展望車で一躍有名になったこの列車は、列車の形式はどんどん新しく便利になってきたが、ロマンスカーの名称は変わることなく引き継がれている。小田急自身も観光路線として力をいれ、ロマンスカーも一時間に四本程は運行されている。JRと違い新宿・箱根湯本間で特急料金込み1820円と安いのも魅力である。

 新宿をでると、すぐ代々木上原を通過する。ここでロマンスカーはJR常磐線の我孫子から地下鉄千代田線を経て地下から顔を出した通勤電車と合流する。日常を離れた旅と日常の通勤と交わる一瞬だ。ここからしばらくは住宅地が続く。列車は家の軒をかすめるようにして走り抜けて行く。町田はロマンスカーによって止まる列車と通過する列車がある。ここは近年急激に発展した衛星都市である。デパートなどもできて小田急沿線では新宿の次に大きな街となっている。JR横浜線との乗り換え駅であることも手伝って、夕方から夜の帰宅時に町田・新宿間でロマンスカーを利用する人も多い。

 新宿から四、五十分、相模川を渡りしばらくすると、ようやく田園風景が望めるようになる。秩父と池袋を結ぶ西武池袋線とは異なり、田園風景が切れるとまたマンションや家が続く。こうして田園風景と住宅地が何度か交互に現れると、突然まわりは山ばかりになる。だがこの景色も長くは続かない。トンネルを抜け東名高速道路と交差するまでである。新松田を通過すると小田原まであと十数分となり、また周囲は住宅地となる。やがてJR東海道線、東海道新幹線と並んで小田原駅のホームに滑り込む。三分の一程の乗客はここで下車する。

 ロマンスカーは小田原で小田急小田原線に別れを告げると、箱根登山鉄道の路線に入る。さすがの特急ロマンスカーも、勾配の厳しい単線をあえぐように上って行く。だがそれも箱根湯本で力つきる。ここからはスイッチバックをゆったりと、しかし力強く上って行く登山電車の出番である。強羅まで三十分少々の道のりを、都合三回のスイッチバックを経由する。六月には紫陽花がとても美しい路線である。電車は扇風機も冷房もない旧式の車両であるから、止まっているときは車体下部のモーターと抵抗からの熱気が車内に入り込み地獄の暑さである。だが走り始めると木々を縫って車内に心地よい風が入り込む。とはいえやはり暑いことに変わりはなく、汗が流れ落ちる。

 箱根湯本では箱根登山鉄道のフリーキップを購入すると、箱根登山鉄道、箱根登山バス、遊覧船、早雲山ロープウェイが三日間乗降自由になる。料金もお得だが切符をかう面倒から解放される。それにバスにのって整理券と運賃表示と小銭を見比べながら、いくら払えばよいのか着くまで判らない不安から解放されるのが一番である。ただ、伊豆箱根鉄道系のバスや遊覧船には乗れないのが不便である。どうしても、という向きには伊豆箱根系のフリークーポンやバスだけがフリーになるバスフリーも買い求めると、ほとんど全ての路線が乗降自由である。この切符をもって、ふとひかれる風景を見つけたら下車してみる気ままな旅もいいだろう。

 強羅からは、箱根登山ケーブルカーが引き継ぎ、早雲山まで運んでくれる。このケーブルカーの車両は最近新しくなりスイス製の最新鋭のものになった。日本製ではなくスイス製というのに何となくうなずいてしまう。途中公園上で下車すると強羅公園にゆける。ここは噴水を中心に左右対象に作られたフランス式整型庭園で、約350種の高山植物に出会うことができる。庭園を抜けてでるとケーブルカーの公園下の駅である。ここから一気に早雲山まで登る。早雲山で箱根ロープウェイに乗り換え大涌谷へと向かう。

 大涌谷には自然科学博物館があり、箱根の自然全般について知ることが出来る。中でも1階につくられた火山活動のジオラマは、約2万年前の噴火の様子を音響効果付きで再現されており、体中に地響きが染み渡る。箱根へ来る旅にここを訪れるが、何度見ても感激する。とにかく一見の価値がある。大涌谷へきた人は硫黄の臭いに顔をしかめながらも、表面が黒くなったゆで卵……硫黄と卵の殻の鉄が結合して硫化鉄になり黒く見える……をたべる人は多いが、この自然科学館を見る人は以外と少ない。

 再びケーブルカーに乗り、大涌谷を後にして姥子へ向かう。所要時間は約9分である。姥子で下りると駅の正面にケーブルカーのゴンドラがでんと据えられており、普段は見ることのできないケーブルカーの上部を見学することが出来る。ここから姥子・湖尻自然探勝路を歩くと、心地よい風が吹き抜け今までの汗がすぐに引いてしまう。途中、線香花火の火花のように咲いたシシウドの花やがく紫陽花に一種など、普段は見ることのできない花を見ることができて、いろいろな発見がある。車やバスで走ると知ることも出来ず、すがすがしさを味わうこともできない。見慣れぬ植物に気を取られながら歩くこと十分、今日の宿の箱根シンフォニーヒル……会社の厚生年金基金経営の保養所……は目の前である。


第二日目

 宿からロープウェイの姥子駅までは数百メートルの道のりである。たかが数百メートルだがずっと登り坂なので結構きつい。夕方と違って木陰が少ないので暑いが、汗が流れ落ちるほどではない。

 朝の姥子駅は閑散としており、乗降客は一人もいない。車全盛時代の今は近場の旅行というと殆ど車を利用するから、わざわざ宿の近くからロープウェイに乗る客もいないらしい。確かに昨日も降りる客は見かけなかったし、まして歩いているような酔狂な観光客は皆無に等しい。

 車旅行をする家庭は、旅行の荷物がとても多い。自分で持たなくて良いから何でもかんでもトランクに放り込むのである。だが旅行先はいつも車で行けるとは限らない。そういうところは大抵遠いし宿泊数も多くなるのが常である。普段から移動手段が車主体の家庭は大変だ。当然車で持ち運ぶような荷物は持てないから減らさざるをえない。だが、いつも減らすことをしないから何を減らせばよいか判らないのである。昔から旅慣れた人ほど荷物は小さくて軽い、慣れぬ人は不安になっていろいろ詰め込むのである。そうは言っても、やはり車がある方が楽なのは確かである。特に子供が小さいときは車に勝る移動手段はちょっとないかもしれない。だが、子供が大きくなったらたまには車を置いて、野山を歩いてみるとよい。今まで見過ごしていたものに気付くし、子供からこれは何?と尋ねられても答えられない自分にショックを受けることだろう。

 姥子から桃源台までは、ロープウェイで約10分ほどである。桃源台にはこれといった名所などもなく、観光船の乗り場といくつかの旅館やホテルがあるだけだ。ここからは小田急系の箱根観光船と、少し離れた湖尻から西武系の伊豆箱根鉄道箱根船舶の二系統の観光船が出ている。小田急系のほうは、海賊船の外観の遊覧船である。天気の良い日は展望デッキに出て湖面を渡る風に吹かれていると実に心地よい。数億年前はここには湖などなく、火山があったとは信じられない。今は芦ノ湖を囲む外輪山に緑が繁り、ちょっとした秘境の雰囲気である。特に船の一番先頭の展望デッキに立つと視界は270度にひろがり、とても東京から数十kmのところとは思えない。

 遊覧船に乗ること約30分、船は箱根町に着く。ここには有名は箱根関所跡がある。関所の番屋が復元されて、内部にも当時の様子が再現されている。入り鉄砲に出女を特に厳しく取り締まるというだけあって、女は全てを脱がされ髪まで解かれて徹底的に調べられという。関所の役人は二十日交代で、小田原城下から派遣された。関所跡の側には資料館もあり、当時の記録などが展示されている。

 関所跡の近くには箱根オルゴール館がある。内外大小の多くのオルゴールが展示販売されており、手にとって音色を確かめることができる。観光地などではオルゴールが販売されていることがあるが、ここまで多くのオルゴールがあるところは見たことがない。さしずめオルゴールの専門店だ。ガイドブックによればアンティークオルゴールを展示したギャラリーもあるらしいが気がつかなかった。展示販売されているオルゴールは、本当に種類が多いので見ているだけでもあきない。中にはオルゴールではないが、ユーミンやポップス、宮崎駿のアニメテーマ曲をオルゴール演奏したものを録音したCDも販売されていた。店内のBGMに流されていたのが、とても落ち着いた感じで心に染み渡ったので、私も一枚買い求めた。

 途中で昼食をとり、土産物屋を覗いたり、くたびれてお茶を飲んだりすると、あっというまに時間がたってしまう。桃源台に戻る観光船が出るまでの間、仕方がないのでまたもや土産物やをふらつくことになる。今は本当に地元の土産とうのは非常に少ないので、あまり土産は買わないことにしている。箱根細工は有名だが、本物はやはり高価である。コースターなどでも、安い物は寄木を紙のように薄く削った「づく」という化粧材を張り付けてある。高価なものは「ムク」と言って寄木を加工して盆やコースターなどにしており、価格的にも十倍程の差がある。

 再び観光船に乗り、朝とは逆の順序で宿へ戻る。昨夜はフルコースだったが、今夜は和食の筈である。楽しみ楽しみ……。


第三日目

 朝食をとり宿の精算を済ませると、再びロープウェイの姥子駅に向かう。昨日とは違って荷物があるので、登り坂がきつい。駅は相変わらず閑散としているが、吹き込んでくる風が少し汗ばんだ肌に心地よい。

 箱根ロープウェイは早雲山を起点に、大涌谷、姥子、終点の桃源台と途中二つの駅がある。ロープウェイの駅とはどういう仕組みになっているだろうのか。今回、閑散とした姥子駅でその仕組みを観察することができた。実は箱根ロープウェイは早雲山・大涌谷間、大涌谷・姥子間、姥子・桃源台間と三つの独立したロープウェイから構成されているのだ。

 ロープウェイのゴンドラ上部は一本の太い固定ワイヤにぶらさがってその重量を支える滑車部と、ゴンドラを牽引する二本の可動ワイヤをくわえ込んでいる部分からなる。駅に入るとゴンドラはくわえ込んだ牽引ワイヤを離して、駅に設置されているゴンドラ移動用のチェーンで移動され、途中乗客を降ろしあるいは乗せてから、再びチェーンで搬送され、次の区間の牽引ワイヤーをくわえ込むのである。以前からロープウエイの駅の構造には疑問を持っていたが、今回よく観察できその疑問も氷解した。誰が考えたのか判らないが非常に良くできた仕組みである。

 だがロープウエイというのは考えてみれば恐ろしい。牽引ワイアをくわえ込んでいる部分が外れれば、ゴンドラは直ちに滑り落ち始め恐らくは下の駅舎に激突するしかないのである。非常ブレーキがついたケーブルカーの方がまだ安全かもしれないと思ったりする。そんなことを言っていると、何も乗れないのでいさぎよくあきらめて乗る方がよい。ロープウェイが途中でとまったというのは聞いたことがあるが、ゴンドラが落下したという事故は聞いたことがない。ロープウェイの落下事故を心配するよりも、普段の交通事故を心配するほうが懸命だ。ここは、そんな事は忘れて雄大な景色を堪能するほうが心地よい。

 早雲山は何もないロープウエイとケーブルカーの接続地点であり、他には何も見るべき物はない。ケーブルカーの駅に入ると、一直線に下の方が見おろせる。レールに挟まれて二本のワイヤーが二編成の車両を引き上げ、あるいは降ろして行く。終点強羅で登山電車に乗り換えるが、運が良いと待ち時間無しで乗ることが出来る。こういう時切符を買わなくて良いフリーパスは便利である。

 登山電車の車内も午前中は気持ちよい風が吹き込んで、初日の午後の混雑した車内とは異なり非常に快適である。途中三度のスイッチバックを経て、行きと同様のんびりと箱根湯本まで運んでくれる。行きは1000分の80という急勾配をあえぐように登り、下りもおそるおそる歩むがごとくゆっくりと下って行く。

 箱根湯本は温泉街である。この名前は結構知られているが、その割には駅前の商店街は小さくすぐに店が切れてしまう。土産物屋も十軒程あるだろうか。あとは観光客目当ての飲食店である。このあたりの飲食店は観光地の常として高くてまずい。だが他に選択の余地はないから仕方がない。あるいは時間帯によっては弁当を購入してロマンスカー車内で食べた方がよい。特に新宿出発の下り特急などは、湯本に着いてから食べるより、新宿の小田急あるいは京王デパートの地下で弁当などを買い求めて車内で食べる方が、旅の風情を味わえるし、安くて旨いし、選択肢も多いからお勧めの方法である。東京から新幹線に乗るときも、ホームで高い弁当を買うより、八重洲口大丸の地下でバラエティに富んだ弁当やおかずを購入する方が賢明である。

 湯本の土産物屋で、土産や温泉饅頭などを購入してふらついているうちに、特急の発車時刻が近づいてくる。缶ジュースやビールなどを調達して車内に腰を落ちつけると、ほっとひと息つく瞬間である。そして旅の終わりの何となく残念で名残惜しい気持ちがふつふつと涌き出して心を揺さぶる一瞬でもある。

 やがて発車時刻になり、特急ロマンスカーは旅を終えた満足感と旅の名残を乗せて、箱根湯本の駅を滑るように静かに出発した。


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